日誌

2学期終業式校長講話

                       学生たちに捧げるレクイエム

  まずは、12月14日~15日に行われた、ウクライナの人々のため、そしてレバノンの難民のための募金活動、有難うございました。これは、ある3年生外国語科の生徒の提案で実現しました。彼は「ロシアがウクライナに侵攻して約10カ月になるが、以前に比べてテレビの報道も減り、人々の関心も薄れている。しかしいまだに戦争が続いていること、そして毎日ただ平和に生きたいと願う罪のない多くの人々が死んでいるということを思い出し、国際高校として学校をあげて行動を起こし、自分たちに何ができるかを考えるきっかけにしたい」という思いから始まりました。こういう生徒が本校にいるということに、私は校長として本当に嬉しく誇らしく思います。和光国際高校の生徒としての「自覚」と「問題意識」を持ってこのような声をあげてくれる生徒がこれからもたくさん出てきてくれることを期待しています。

 今日は、みなさんにジョルジョ・アガンベンという人が書いた「私たちはどこにいるのか?」という本を紹介したいと思います。アガンベンはヨーロッパを、あるいは世界を代表する現代で最も著名なイタリアの政治哲学者です。そのアガンベンが2020年2月から7月まで、新聞や雑誌などの様々な媒体に書いた論文をまとめたのがこの本です。アガンベンは、この本の中で世界の多くの国家権力が、このコロナのパンデミックを保健衛生上の緊急事態であり、これをある種の「例外状態」として、これまで民主主義社会では当たり前であった自由や権利を奪ったと、国家権力を激しく糾弾しています。多くの民主国家の為政者たちは、外出や集会の権利を奪い、学校で学ぶ権利を奪い、死者を弔う権利さえ奪った。そして「社会的距離の確保」という理由からすべてが「デジタルテクノロジー」に取って代わられた。人間関係は零落し、人間的・情感的な次元のすべてを失った、とコロナ禍の世界でのロックダウンなどのコロナ対策を厳しく批判しています。そして「恐怖」とは何か。また、「身体的な生」と「精神的な生」とは何かを問いかけています。そしてこの状況の中で沈黙する宗教者や法律家を強く非難しています。しかし、2020年の2月から7月までとは世界がどんな状況だったか思い出してください。得体のしれない未知のウイルスがまん延し死者が増え、イタリアに限らず世界がパニックになっていた時です。ですからアガンベンの議論に耳を傾けたり、擁護する人はほとんどいませんでした。世界中で、このウイルスにどう対処したらいいかという具体的な対策が、マスコミを含めた言論の場を支配し、彼の議論は言論の場から締め出され、ある意味、嘲笑と黙殺の対象となってしまいました。彼自身もそのことは十分理解していましたが、あえて議論と弁明を続けました。この本はそういう意味で「抵抗の書」です。日本でも一部の学者が取り上げましたが、ほとんどのマスコミや知識人と言われる人も相手にしませんでした。日本も例外なくマスコミなどの言論の世界は、感染防止対策一色でした。人間はパニックになると全員が1つの色に染まり、同じ方向を見て語り、違った見方をする人間、違った意見は排除されてしまうものです。たしかに、彼の議論に科学的な不備がないわけではないし、書かれている内容を表面的に理解すると、ちょっと過激で偏っているのではないかと思うところもあります。私もこの本を読んで、そこまで言うのかと、ちょっと首をかしげてしまう部分もあります。

 ではなぜ今、みなさんにこの本を紹介しているのかと言うと、この本の中に「学生たちに捧げるレクイエム」という章があり、この内容については、是非、皆さんに紹介したいと思ったからです。

 そのきっかけになったのは、先日ある大学の先生と授業について話したことです。その大学教授によると、いまは、ほぼ8割程度の授業は対面に戻ったが一部はまだリモートで授業を行っているそうです。しかし対面の授業でも一方的な講義形式の授業をやっていると、学生から「この授業形式ならリモートでやってください。」と言われてしまうそうです。またある時、リモートで授業をしている時、カメラを切って顔が見えない学生がいたので声をかけると「今移動中で電車の中なので、応答できません。」とチャットで伝えてきたというのです。「大学の授業は本当に変わってしまった」とその先生は嘆いていました。私もその話を聞いてとても心配になりました。小中高校は、コロナ前になるべく戻ろうと先生も生徒も努力していますが、大学はそんな状態なのかとショックを受けました。そこで、今日みなさんに、アガンベンの「学生たちに捧げるレクイエム」という章の一部を紹介しようと思いました。彼はこの章で次のように述べています。

 「物理的にそこにいるという要素は、学生と教員の関係において、いつでも非常に重要なものだったが、教授法が変容することによって、これが決定的に姿を消す。セミナーにおいて集団でなされる議論は、教育の最も生き生きとした部分だったが、これも姿を消す。生の感覚の経験がすべて消し去られ、まなざしが亡霊的なスクリーンに持続的に監禁されるという状況を私たちは今生きている。」

 「大学は、ヨーロッパにおいては学生組合、「ウニウェルシタス」から生まれ、大学(ウニヴェルシタ)という名はそこに由来している。つまり、学生の生活形式は、何よりもまず、次のような生活形式だった。すなわち、それを規定するのは、たしかに研究と授業の聴講であったが、それにおとらず重要なのは、他の学生たちとの出会いや熱心な意見交換だった。しばしば学生たちは非常に遠い場所から来ており、それぞれの出身地によって同郷人会(ナティオネス)として集まった。この生活形式は何世紀ものあいだ、さまざまなありかたへと進化していったが、中世の放浪学僧(クレリクス・ヴァガンス)から20世紀の学生運動に至るまで、大学という現象の社会的次元は恒常的に存在していた。大学の教室で教えたことのある者であれば知っていることだが、いわば教師の目の前で友人関係が結ばれ、文化的・政治的な関心にしたがって小さな研究グループが構成され、彼らは授業が終わった後も会い続けていた。こうしたことすべてが、10世紀近くにわたって続いたが、それが今や、これを限りと終わってしまう。学生たちは、もはや大学の置かれている都市で生活することはなく、誰もが自室に閉じこもって授業を聴講することになるだろう。以前であれば、自分の仲間だったはずの他の学生たちとは、何百キロも離れていることもあるだろう。かつて威信のあった大学の置かれている小都市の街路からは、しばしば当の都市の最も生き生きとした部分を構成していた、あの学生共同体が姿を消してしまうだろう。」

 どうですか。皆さんは今の文章を聞いてどう思いましたか。中世から近代・現代と大学が果たしてきた社会的役割が少しでも理解できましたか。アガンベンはその重要な役割が、今、消えていこうとしている現実を、レクイエム、鎮魂曲として学生たちに警告しているのです。

 みなさんが大学で学ぶ時には、世の中がどうなっているのか、私にもわかりません。しかし今日紹介した文章を忘れないでください。学問の世界には便利さや効率だけでは測れない価値があるのです。今日配布した和国通信にもこの引用を載せておきましたので、もう一度、読んでみてください。また、この本を司書の宮崎先生にお願いして図書館に入れてもらいました。興味のある人は是非、読んでみてください。

 最後に、明日はクリスマスイブです。クリスマス、そしてお正月は、日頃、いることが当たり前すぎてあまり語らない存在、とても大切なのに大切にできない存在、つまり家族の人たちと大切な時間を過ごす時期です。是非、この季節は家族の一員として、大切な時間を過ごしてください。それでは、1月6日、元気に登校してください。